3S(スリーエス)とは、 稲盛研究助成 を受けた研究者から構成される「盛和スカラーズソサエティ(Seiwa Scholars Society)」の略称です。3Sでのつながりをきっかけにその多様な専門性の交流が深まることで、助成対象者の研究がさらに発展していくことを願い、1997年から活動してきました。連載「3S研究者探訪」では、さまざまな分野で活躍する3Sの研究者へのインタビューをお届けしています。第11回は、同志社女子大学の宮本明子(みやもと・あきこ)氏=2017年助成対象者=の研究室を訪問してきました。
日本を代表する映画監督・小津安二郎の映画は国内外で高く評価され、多くの映画監督や作り手にも影響を与えています。しかし、最後の監督作品『秋刀魚の味』の公開(1962年)から60年以上経った今、小津の名前は知っていても映画を見たことはないという人も多くなっています。
同志社女子大学准教授で映画研究を行っている宮本明子氏も、大学に入るまでは、小津映画にあまり興味を持たなかったと言います。それなのに研究を行うようになったのは、なぜでしょうか。
宮本氏に小津映画の魅力や、映画を資料から読み解く映画研究の面白さについて、詳しくお話を伺いました。
雄弁に物語る映画資料を読み解きたい
──小津映画との出会いを教えてください。
宮本明子氏(以下敬称略) 高校生のとき、テレビで見たのが最初だったと思います。その時は不思議な映画だなと感じたくらいで、特に興味を持ちませんでした。気になり始めたのは、大学に入ってからです。授業の中で『秋日和』を観ました。その中におじさんが3人集まって談笑している場面があったのですが、お酒や瓶が人物と相似するように見えて。その構図に「あれっ?」と思いました。構図の美しさに引き込まれたのです。
その後、監督の絵コンテを見る機会があり、丹念にまとめられた記録に魅了されました。なるほど、構図や撮り方はこうして決められていくのだな、とわかりました。プライベートで小津監督が知人の子どもあてに描いたはがきには、優しい文字と絵が記されていました。こうした資料を通して、一体この人はどんな人なのだろうと、小津安二郎という人物に惹かれるようになったのです。
監督の意識に注目して映画を観るようになると、隅々までこだわった整いすぎともいえる構図が面白くなってきました。そこから、もっと知りたいと思うようになりました。
──小津監督のファンは国内外に多くいます。有名な監督の研究をすることに対して、どのような思いがありましたか?
宮本 私が研究を始めた時には多くの人が小津安二郎のことを語っていて、新しい発見はもうないだろうと考えられていました。私自身も、もともと文学研究を行っていました。映画を専門に研究してきた人たちがたくさんいる中で、私にできることはないのでは……と悩んだこともありました。
そんな迷いが驚きや喜びに変わるきっかけになったのは、『早春』という映画の台本に、青鉛筆の書き込みを見つけたことです。一体、誰がどういう目的で書いたのか。その謎を解明したくてワクワクしました。
この資料に出会うまでは、小津映画をどう言葉にすればいいのか、誰に伝えたらよいのかと、一人悩んでいました。しかし、資料を目の前にしたとき、光が差したような気持ちになりました。対話する相手は資料ではないか、と思えたのです。この筆跡は誰のものか。なぜ、この書き込みをしたのか。一体ここでどういうことが起きたのか。そんなことを想像しながら、他の資料とも突き合わせ、見えない相手と話すように、研究を始めるようになりました。
──資料の調査からどのようなことがわかってきたのでしょうか。
宮本 それまで小津監督は、撮影に入ると出来上がった脚本を変更しないと考えられてきました。しかし、脚本や関係者の日記、制作記録などの資料を調査していくうち、そうとは言い切れないこともわかってきました。例えば、ある脚本には、現場で何度も変更を加えたことがわかる書き込みがありました。小津監督の脚本や、他のスタッフの脚本など、何冊も照らし合わせて見ていくと、現場や撮影後にも変更を加えながら、小津映画が作られてきたことがわかってきたのです。
──現在はどのような資料を調査していますか?
宮本 野田高梧(のだ・こうご)の日記を、読み取って文字にする作業を行っています。野田は小津安二郎の監督第一作から脚本を執筆していた脚本家です。A6サイズをはじめ、さまざまな手帳に書かれた日記が残されています。そこには映画制作にまつわる出来事も、小さな文字で克明に記録されています。一つ一つ読み取って文字に起こしています。あと10年以内に完成させたい、と考えています。
──細かい文字や薄くて判別しづらい箇所も多く、読み取っていくのはとても大変そうです。
宮本 確かに大変ですね。しかし、筆跡を解読したり調査したりするのは好きなので、喜びの方が大きいです。ただし、偏った目で見てしまうと事実が歪んでしまうので、日を空けて読み直すことも心がけています。思い込みを外して読むことが、研究を行う上ではとても重要だと考えています。
託されたものを大切に受け取り、つないでいく
──2019年に宮本先生は共同研究者の松浦莞二(まつうら・かんじ)さんと『小津安二郎 大全』を出版されました。
宮本 はい。お手紙を書いたり、訪ねたり、たくさんの人にお話を伺うことができました。小津監督と一緒に作品を作り上げたプロデューサー、撮影監督、出演俳優、現在活躍している映画監督、音楽家などですね。
本当に貴重なお話を伺いました。中にはご高齢の方もいらっしゃいます。特に撮影時の証言や記録はきちんと残して伝えていかないと消えてしまう、と思いました。研究者として自分に何ができるのかと悩んでいた時期もありましたが、今は資料やインタビューから学び、得たことをきちんと伝えていきたいという想いを強くしています。
──宮本先生と松浦さんは「小津安二郎学会」を運営されていますね。
宮本 小津安二郎に関しては、これまで、完成した映画を分析する研究や批評が主になされてきました。一方、撮影過程の研究は十分ではありません。そうした研究をこれからも進めていきたい、研究の中に閉じることなく広く成果を伝えていく場を作りたい、という想いで運営しています。
私もそうでしたが、小津安二郎をまだ知らない若い人たちには、小津映画は難しい、とっつきにくいと思われがちです。そのイメージを払拭するような場になったらいいですね。『小津安二郎 大全』に収録したインタビューの中でも、若い人にも読んでほしいと思う記事をピックアップして、学会のウェブサイト*に掲載しています。
──『YAWARA!』や『MONSTER』などの作品で知られる漫画家の浦沢直樹さんのインタビューで、小津映画と漫画の関係を話されているのが大変興味深かったです。
宮本 お話を聞いていると、研究者以上に小津映画を観ていると思わされます。鋭い視点で、構図や人物の描き方を見ている。漫画の中にも、小津映画的なものが取り入れられています。例えば、座卓の天板の上面がぎりぎり見えない角度で撮られた構図が小津映画の中にはよく出てくるのですが、このような構図が、『YAWARA!』の猪熊滋悟郎と祐天寺監督が話している座卓の場面(下図左)に登場しています。また『あさドラ!』の作中でヨネちゃんが家で電話する場面は、1952年の小津映画『お茶漬の味』のシーンが意識されています(下図右)。
──学会では今後どのような活動をされていくのでしょうか。
宮本 講演会やイベントなどを計画しています。2023年は小津安二郎生誕120周年にあたります。米アカデミー映画博物館で、映画の紹介をする機会にも恵まれました。この機会に、小津映画の新たな魅力を多くの人に伝えたいですね。
映画は得体が知れない「お化け」のような魅力がある
──映画研究の魅力はどういうところにあるのでしょうか。
宮本 映画は、鑑賞する人によって、捉え方や解釈や楽しみ方が違います。制作過程や関わった人たちや、当時の社会に迫ると、作品の見え方もがらりと変わってきます。映画とは何かと考えたときに、ひとことでは言い表しようのない、実態がわからないお化けのようなものだなとも感じます。少し怖いけれど、もっと知りたいと思ってしまうのです。
映画の現場には、作る人、演じる人、映画を届ける人、観る人、さまざまな人たちがいます。それだけに、研究も一筋縄ではいかない難しさがあります。いろいろな方向から調べていく必要がある。しかし、だからこそ、やりがいがあると言えます。
映画を観るときに、多くの人が一番に気になるのはストーリーかもしれません。しかし、それだけでなく、シーンに流れる音楽や、人々の振る舞いに注目することもできます。大学生の私が小津監督の映画に「あれっ?」と思い見方が変わったように、人それぞれの映画の見方、楽しみ方があると思います。
授業で学生と小津映画を観ることがあります。映画の舞台となっている時代とは異なる現代を生きる18~19歳の大学生たちですが、若い人たちならではの発見を教えてくれます。例えば、Instagramで見るきれいな構図に似ているという声や、セリフの言い方が最初は何だか変だと思っていたけれど聞いていると癖になるという感想がよく出てきます。私自身はもう何度も見ている映画でも、学生と一緒に見ていると常に発見があります。それがとても楽しいです。
「小津安二郎研究は始まったばかり」と書いた理由
──他の分野の研究者とのコラボレーションはしてみたいですか。
宮本 ぜひ、してみたいですね。言葉でなかなか表現できない小津映画の魅力を数値化したらどうなるでしょうか。例えば、セリフの特徴やリズムや音程などですね。
他にも、小津監督の映画では登場人物の表情がほとんど変わらない、と言われます。一方で、表情が豊かな人もいる。それがどういう効果を出しているのか、認知心理学の研究者と考えてみたらどうなるだろう、と妄想しています。使われている音楽や演出も「不思議」だと言われます。例えば、悲しい場面で明るい音楽がついている。この特徴や、こうした演出が人の感情にどう影響するのかも考えてみたいです。独特の構図や家屋の特徴なども、建築学の専門家ならどう捉えるだろう、と考えています。
──小津安二郎学会のウェブサイトに「小津安二郎研究はまだ始まったばかりです」とあるのが印象的でした。
宮本 映画作品の分析は数多くなされてきました。しかし、制作過程については調査が十分ではありません。そこで、あえて「始まったばかり」という言葉を使いました。もちろん、これまで小津安二郎の研究や映画批評などをされてきた方の知識と知恵の蓄積のおかげで、今の研究が成立していることに、感謝と敬意を抱いています。さらにそこから先に進んで新しい研究もしていきたい。その決意を込めて書きました。
本当はちょっと怖くて、この文を消してしまいたい、と思うこともあります(笑)。しかし、共に研究する仲間と誠実に、資料や映画に携わった人、そして小津安二郎という対象に向き合いたいと思うようになりました。これまで映画研究や歴史学などで行われてきた手法を引き継ぎながら、研究を発展させたいと考えています。
もしかしたら、これまでまったく小津安二郎に触れてこなかった若い人が、「まだ始まったばかり」なら自分もやってみようと思うかもしれない。それもまたうれしいです。
──ありがとうございました。
*小津安二郎学会ウェブサイト:https://www.ozuyasujiro.jp/
いつもそばにあるもの | 白手袋 書き込みのある脚本や日記は、この世に一つしかない貴重な資料です。購入したものもあれば、関係者や記念館から借りているものもあります。「大切な資料なので、扱いには十分注意します。白手袋は資料に触れるときに欠かせません。小津監督も撮影のために白いシャツをたくさんそろえていたそうですが、私も白手袋はたくさんそろえています(笑)」 |
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この道を選んでなかったら? | テレビ番組制作に関わりたいと答えてくれた宮本氏。「学生時代にテレビ番組の企画や制作に関わる仕事をしていました。視聴者の一人として提案した意見や感想が反映されたとき、小さな声も番組につながりうる緊張や面白さを感じました。こんなふうに何かをたくさんの人たちで作り上げたいと思っていました」 |
宮本明子(みやもと・あきこ)
同志社女子大学 表象文化学部 日本語日本文学科 准教授。博士(文学)。早稲田大学大学院修了後、早稲田大学助手、東京工業大学助教、同志社女子大学助教などを経て、2021年から現職。撮影台本やノートなど、小津安二郎直筆資料を中心に、映画資料の調査や取材を進めてきた。その成果となる『小津安二郎 大全』(松浦莞二・宮本明子編著、朝日新聞出版)を2019年3月に刊行した。2022年3月には、絶版となり再刊が待たれていた『小津安二郎・人と仕事』を『改訂新版 小津安二郎・人と仕事 上/下』(松浦莞二・宮本明子編著、原著発行者 井上和男)として刊行した。映画に関わるイベントの企画、進行にも携わっている。
取材・文:寒竹 泉美(チーム・パスカル)
撮影:東 真子
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#09 長里 千香子氏
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#08 弓場 英司氏
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