3S(スリーエス)とは、 稲盛研究助成 を受けた研究者から構成される「盛和スカラーズソサエティ(Seiwa Scholars Society)」の略称です。3Sでのつながりをきっかけにその多様な専門性の交流が深まることで、助成対象者の研究がさらに発展していくことを願い、1997年から活動してきました。連載「3S研究者探訪」では、さまざまな分野で活躍する、3Sの研究者へのインタビューをお届けしています。第10回は、福井大学の沖昌也(おき・まさや)氏=2008年助成対象者=の研究室を訪問してきました。
昨今の生命科学分野の技術発展は目覚ましく、これまでにわかっていなかった生命の仕組みが続々と解明されてきています。福井大学大学院工学研究科の沖昌也氏は酵母を使った独自のシステムを構築し、「エピジェネティクス」という生命現象の謎に迫っています。沖氏の研究室を訪問して、詳しい研究内容を伺いました。
独自の酵母システムでエピジェネティクスを可視化する
── 沖先生が研究している「エピジェネティクス」とはどういう現象ですか?
沖昌也氏(以下敬称略) 生命の設計図であるDNAの塩基配列は生まれたときにはもう決まっていて、基本的には生涯変わることはありません。また、ヒトのような多細胞生物の場合、ひとつの受精卵からDNAを複製して細胞分裂して増えていくため、全身のどの細胞を見ても同じDNAを持っています。しかし、DNAは同じでもDNA上の遺伝子の使い方は、細胞ごとにいろいろ調節されて異なっています。そのおかげで、脳の細胞や肺の細胞など、多様な働きを持つ細胞が存在するのです。
細胞レベルで起こることは個体全体にも影響します。まったく同じDNAを持つ一卵性の双子が、成長するにつれて個性のまったく違う人間になっていくのも、遺伝子の使い方の違いが積み重なっていくからです。
このように生まれた後に遺伝子の使い方が調節される現象を「エピジェネティクス」と呼びます。「genetics(遺伝学)」に、「越えた」「上の」「外の」などの意味を表すギリシャ語の接頭語「epi」がくっついた造語です。
エピジェネティクスは細胞の役割を決めるだけでなく、疾患にも関係しています。病気の原因となっているエピジェネティクスのメカニズムがわかれば、薬によって治療することが可能になります。エピジェネティクスはDNAの変異のような不可逆的な変化ではないため、治療のターゲットとしては適しているのです。
── どのようなアプローチで研究をしているのでしょうか?
沖 私は特にエピジェネティクスの途中過程に注目しています。エピジェネティクスはDNAやDNAを巻きつけているヒストンにメチル基と呼ばれる小さな物質が付与されることなどで調節されます。このように小さな化学物質をくっつけて元の物質の性質を少し変えるプロセスのことを化学の世界では「修飾」と呼びますが、いつどのタイミングで修飾が行われるのかは、まだほとんど解明されていません。
エピジェネティクスを本当に理解し、疾患の治療に応用するには、変化し終わった状態ではなく、介入できる過程を捉えることが重要です。そのため、私たちの研究室では、酵母菌を使ってエピジェネティクスの途中過程を観察できるシステムを独自に開発しました。
下の図の写真はひとつの酵母から増えていった、すべて同じDNAの酵母です。人工的に特定の遺伝子が発現すると蛍光緑が光るように遺伝子改変しています。左側はすべての酵母が同じように蛍光を発していますが、右側は蛍光を発しているものと、そうでないものがあります。これはエピジェネティクス制御の違いによるものです。この実験系を上手く利用すると、調べたい遺伝子がどういう環境や条件で発現するのかを知ることができ、エピジェネティクス制御が働く条件を絞り込むことができます。
── 酵母を使ったのはなぜでしょうか?
沖 酵母はひとつの細胞でできた小さな生物ですが、私たちと同じ真核生物です。生命の基本的な現象は酵母もヒトも似ているため、細胞周期や老化、オートファジーなど、生命の基本的な現象は酵母研究によって明らかになってきました。エピジェネティクスのメカニズムは非常に複雑ですが、まずはよりシンプルな生物である酵母で調べ、そこからわかったことを手掛かりに、ネズミやヒトに当てはめていく戦略をとっています。
もう一点、酵母は、芽が出るように一部が膨らんでふたつの細胞ができるという特徴的な増殖をします。この場合、芽から生まれた細胞は新しい娘細胞です。世代を追いかけて、何代目のどのタイミングで変化が起きたのかを知ることができることも酵母を使う大きなメリットです。
酵母で見つけ出した白内障の治療薬
── 酵母を使ったシステムでどういうことがわかってきましたか?
沖 解明できたことはたくさんありますが、代表的なものをひとつ挙げると、白内障の原因となる遺伝子を発見し、それを制御することで白内障を予防する薬を開発しました。エピジェネティック発現状態を制御することで白内障を予防できたという報告は今までになく、世界で初めての報告になりました。さらに、現在は発症を抑えるだけでなく、白内障を治療する薬も発見して特許も取得しています。
白内障は加齢によってほとんどの人が発症する、患者数の多い疾患です。日本では簡単な日帰り手術で治療することができますが、目にメスを入れるのが怖くて手術をしたくないという方もいます。また、発展途上国では手術を受ける機会が得られずに失明してしまう人も多くいます。そのため、薬でも治療できることが重要なのです。
ただし、目薬として投与すると、有効成分の多くが角膜で阻まれてしまいます。角膜をどうやって通り抜けさせて、必要な場所に届かせるかということを考えるドラッグデリバリーの研究も進めています。また、同じ酵母システムを使って網膜症の治療薬も見つけました。こちらは注射で角膜内に投与するため、ドラッグデリバリーの問題が発生しません。両方開発を進めていますが、もしかしたら、網膜症の治療薬の方が先に世に出るかもしれませんね。
── この酵母のシステムを用いればさまざまなエピジェネティクス現象を明らかにできそうですが、白内障に注目したのはなぜでしょうか。
沖 どの疾患を研究対象に選ぶかは、事前にかなり検討しました。いくら酵母で治療のターゲットとなる遺伝子を見つけても、動物実験モデルがなかったり、患者さんのサンプルを手に入れるのが難しかったりすると、なかなか臨床応用につなげることができません。
実は、白内障を選んだのは、福井大学医学部の眼科にいる高校の同級生が声をかけてくれたことがきっかけです。大学の広報誌に私の研究が取り上げられ、それを見た同級生が「一緒にやらないか」というメールをくれました。
白内障は左右差があります。左と右で進行具合が違うということは、エピジェネティクスが関わっている可能性が高い。また、手術のときに目の中のレンズを取って人工レンズに置き換えるので、サンプルの回収も可能です。さらに、白内障の動物モデルも既に開発されており、研究を進めやすい条件がそろっていました。それで一緒に共同研究を始めました。
── 共同研究の始まり方がとてもユニークですね。
沖 そうですね。広報誌に取り上げてもらったことがきっかけなので、大学に感謝しています。他の専門家と組むことで研究の幅が大きく広がります。他にも情報系の先生と組んで酵母のシステムの解析に画像処理の技術を取り入れ自動で解析できるソフトを作ってもらったり、疾患の原因遺伝子の特定に機械学習や数理モデルの概念を取り入れたり、有機化学の先生に治療ターゲットがわかったあとに薬を作ってもらったりしています。共同研究相手は自分から探しに行くことが多いですね。
JSTさきがけのメンバーになったことで異分野の研究者と出会う機会が増えました。福井大学の中で探すことも多く、周りの人に「こんなことできる人いませんか」と尋ねて、できそうな人がいたら会いにいきます。今はドラッグデリバリーを研究したいので、高分子化学の研究者を口説き落とそうとしているところです。
何度も繰り返す地道な実験の積み重ねから、新しい概念が生まれる
── いつ、研究者になろうと思いましたか?
沖 いつだったか覚えていないくらい、子どもの頃からです。漠然と将来は研究者になろうと思っていました。父が大学の教員だったので、夏休みは実験室によく遊びにいきました。
身体を動かすことが好きで、中学からずっとバトミントンに打ち込んでいましたが、大学1年生のときにケガをしてバトミントンができなくなりました。そんなときに、のちに所属する研究室の教授に声をかけてもらって、1年生のときから研究室に出入りして実験をするようになりました。
研究者としては理論を立ててスマートに問題解決をするタイプというよりは、とにかく手をたくさん動かして大量にデータを取りながら、その中で見えてくるものを捕まえるスタイルです。泥臭い地道な実験が好きなのです。大学院の学生のときは、毎日膨大な量の実験を繰り返して1年以上目当てのものが見つからなかったのですが、そんな苦労をしてようやく成功したときの感動が忘れられず、このスタイルを貫いています。
── 網羅的に探索していく方法の強みは何でしょうか?
沖 まったく想定していなかったものを見つけられることです。網羅的に実験をすることで、なぜふるい分けられてきたのかわからないものが出てくる。そこからスタートすると、これまでにない、まったく新しい概念が生まれてくることがあります。ただ時間はかかるし、大変ですけどね。
── 根っからの研究者という感じですが、もし今の道を選んでいなかったら何をしていると思いますか?
沖 研究者以外の職業を考えたことはないのですが、強いて言えば日本酒の杜氏ですかね。日本酒が好きで、全国いろいろなところに行って、それぞれの土地のお店でお酒を飲むことを趣味にしています。先月、学会で岩手に行くことができたので、これで47都道府県すべてを制覇しました。本当にたくさんのお酒を飲んできましたが、場所によって独自の個性があって、飽きることがありません。
どの日本酒もおいしかったですが、やっぱり総合的には福井の日本酒が一番ですね。地元贔屓ですが(笑)
いつもそばにあるもの |
ニューヨークの路上で描いてもらった絵 色鮮やかな鳥や龍や蝶が描かれたこの絵は、ローマ字でMASAYA OKIと描いてあります。「NIHで研究していた時代に、ニューヨークの路上アーティストから購入しました。目の前であっという間に描いてくれるのです。9.11が起きた直後です。引っ越しのたびに必ず持ってきて、実験室の見えるところに飾っています」 |
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この一冊 |
『理由』(宮部みゆき著、朝日新聞社) 視点が切り替わり複数人が証言する形式の小説に衝撃を受けたと話す沖氏。「推理小説の概念が変わりましたね。本を読むのは好きで、推理小説は小学生のときからたくさん読んでいました。最近は忙しくてあまりゆっくりと小説を読めていませんが、退職したら自分も推理小説を書きたいと思っています」 |
沖 昌也(おき・まさや)
福井大学大学院工学研究科教授。福井県生まれ。富山大学大学院工学研究科修士課程で化学生物工学を学び、九州大学大学院医学系研究科博士課程で分子生命科学を専攻。1999年に博士(理学)取得。その後、日本学術振興会海外特別研究員として米国立衛生研究所(NIH)に留学し、エピジェネティクスの研究を行う。2005年に帰国。長崎大学助手、理化学研究所研究員、福井大学准教授、JSTさきがけ研究員兼任などを経て、2018年から現職。
取材・文:寒竹 泉美(チーム・パスカル)
撮影:楠本 涼
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