連載「文化芸術の灯」#3
能の伝統をより良い未来のために活かしたい

公益財団法人 山本能楽堂
山本 佳誌枝さん

稲盛財団は2020年6月、新型コロナウイルス感染症の拡大により影響を受けた実演芸術団体および関連企業の活動に対し、「稲盛財団文化芸術支援プログラム」による支援を実施しました。支援先団体へのインタビュー記事の連載「文化芸術の灯」。3回目となる今回は、国内外での能の普及活動にも力を注ぐ「公益財団法人 山本能楽堂」(大阪市中央区)の事務局長、山本 佳誌枝(やまもと・よしえ)さんにお話を伺いました。

連載「文化芸術の灯」のこれまでの記事
#1 人形劇団クラルテ 鶴巻靖子さん
#2 株式会社 流 關秀哉さん

過去から未来へ 普遍的な人間の姿を伝える仮面劇

── まず能の魅力について教えてください。

山本佳誌枝さん(以下敬称略) 能は室町時代から650年間、途切れることなく継承されてきた芸能です。世界でも、これだけ長く続いている仮面劇は他に例がないんです。能には室町時代の日本人の魂がそのまま残っていて、能を観ることでタイムスリップしたり、能の中から普遍的な人間の感情みたいなものを読み解いて、それを未来に活かしていくことができるということが、何よりの魅力だと思います。

他の舞台芸術と違って、人間が持っている力だけで演じられるというのも能のすごいところだと思います。通常の舞台芸術の公演では電源や照明が必要ですが、能を上演するのには他に何も要らないんです。例えば明日、お寺のステージを借りてお祝いに能を演じて欲しいと言われても、人さえ揃えばそこですぐ公演が成立します。

またユニットを組んで公演をしていますのでメンバーは毎回違います。一般の人には分かりにくいかもしれませんが、舞台上で能楽師同士がいろんな駆け引きをしながら、芸をぶつかり合わせて一期一会の公演をしています。そのため、いつも新しいというのも能の魅力ではないかと思っています。

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『高砂』*1 野外公演のようす(2016年4月2日、中大江公園桜下能にて)
息遣いや汗まで感じる近さで 観客と一体化する能舞台

── 山本能楽堂にはどんな特徴がありますか?

山本 わたしたちの能楽堂は1927年に主人(山本能楽堂代表理事・能楽師 山本章弘さん)の祖父が建てました。一度、1945年の大空襲で焼けましたが、1950年に再建し、ここで今まで続けさせていただいております。この能楽堂の一番の特徴は舞台と客席が非常に近いことです。マイクなどを使わず生の音で感じられる、昔の芝居小屋のような雰囲気があって、演者の息遣いや汗まで一緒に感じられます。能は、独特の張りつめた空気感を演者と観客が共有する、世界的にも珍しい芸能だと思います。国立能楽堂の客席数は600人ほどですが、山本能楽堂は200人ほどで、さらにコンパクトですので、お客様が舞台とより一体化できることが最大の特徴だと思います。

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山本能楽堂の歴史ある看板(左上)と能舞台(右)。
2011年の改修では、ライブラリー(左下)や資料室も設けられた 
ブルガリア人留学生との縁から東欧へ
古代ローマ時代の劇場でも上演

── ブルガリアやルーマニアをはじめ、海外でも数多く公演されていますね。

山本 実は、ブルガリア人のペトコ・スラボフ(Petko Slavov)さん*2 という方が2008年に能を研究するために留学して来られまして、主人から能の稽古を教わるようになったんです。以来大変親しい関係が続いておりました。そのペトコさんに頼まれて、ブルガリアのソフィア大学や国立芸能アカデミー*3 で演劇を学んでいる学生さんに、現地でワークショップをしましたところ、すごく好評でして、ブルガリア大使の方にも絶賛していただきました。

ペトコ・スラボフさん(左)と山本章弘さん(右)(2016年1月25日、山本能楽堂で) 

その後、2011年に文化庁の海外公演の助成事業の採択をいただき、初めてブルガリアで公演しました。『水の輪』*4 という水の浄化をテーマにした新作能でブルガリアの子ども達が「大阪ことば」で約30名出演しました。また『羽衣』*5 の公演では、参加型の公演にしたこともあって本当に喜んでいただき、次の年もまた公演することになったんです。2年目はブルガリアとスロバキアでも公演し、大成功でした。スロバキアは、ブラチスラヴァ城*6 という観光でも有名なところと、さらにそこから車で5時間くらいのコシツェという、2013年に欧州文化首都に選ばれた都市でも公演しました。

ブルガリアでの『オルフェウス』*7 公演(YouTube)

そうして欧州文化首都との関係ができたおかげで、2016年にはルーマニアのシビウ国際演劇祭*8 に出演したらどうかと、大使館から要請をいただきました。以来、2016年から5年続けて招待されています。毎年10日間の会期中におよそ70万人の人が世界中から来られるのですが、今年はコロナの影響でオンラインでの開催になって、参加総数は150万人になりました。

今だからこそ 文化の力を信じつづける

── 新型コロナウイルスの感染拡大による公演自粛期間中は、どのようなお気持ちで過ごされていましたか?

山本 これだけ何もないというのは初めての経験でした。主人は、3歳の時からずっと舞台に立ってきました。舞台衣装は黒い紋付ですが、大学を卒業してこの道に入ってから紋付を1カ月以上着ないというのは全く初めてで、それが何カ月も続いたものですから本当にどうなるのかなあという不安な気持ちでいっぱいでした。

── 能の演者の方はどうされていたのでしょうか?

山本 能の公演は毎回ユニットを組んでやっていますので、もともと、山本家同門の能楽師が一同に集まって稽古をするわけではないんです。みなさん自宅でお稽古できる、何がしかの環境をもっていらっしゃる方が多いので、大抵の方は自宅で声を出すなど、独自に稽古をされていたのではないかと思います。伝統芸能は日々の重なりの中で伝承できているものですので。一般の方へのお稽古も、若い能楽師の方を中心に、オンラインでの稽古も増えたようです。ただ、独特の間合いなどが、オンラインでは少し遅れるみたいで、能の楽器のお稽古の中には、オンラインでは難しいものもあるようです。

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自粛期間を経て再開後の公演のようす(2020年7月18日、山本能楽堂で・photo@工房円)

── 6月1日から公演を再開された時はいかがでしたか?

山本 皆と会えるということ、一緒に舞台に立てるということが本当に嬉しくて、喜びの気持ち以外の何ものでもなかったですね。公演再開後の初めのころには、感動して泣いてくださっているお客様もおられました。心の栄養と言いますか、心の豊かさを今こそ大切にしなければならないと思います。こういう時だから、余計に芸術の大切さを見直すことができたと思います。何でやっているのかということを、深く考える機会になったのかもしれません。

公演を再開したとき、二度と文化の灯を消してはいけないという思いを共有しました。社会に対して、コロナで疲れている方たちのためにも、文化ができることの力を信じて続けるしかないと決心しました。

海外公演も行っている関係で、海外の方たちとも電話でやりとりを続けているのですが、わたしたちだけでなく、海外の人たちも同じ思いで、コロナ渦でどのようにすればよいのか考えて、前向きに進んでおられます。わたしたちだけが立ち止まることはできません。

伝統をつないでいかなければならない 公演再開時の堅い決心

── コロナ禍の中での公演の状況や対策などについて教えてください。

山本 客席数は一応国のガイドラインでは、能とかクラシックなどは100%入れて良いとされています。ただ、以前のガイドラインは客席は1~2メートル間隔をあける必要がありましたので、精一杯工夫しても70席しか利用できませんでした。客席数は227席ですが、非常事態宣言明けには3分の1に制限しましたので、今100%に戻して良いと言われても怖くて戻せないんです。クラスターが発生したら大変ですから。夏から秋の初めは130席ほどにしていたんですが、最近またひどくなってきましたので、現在*7 は100席ほどです。

対策としては、換気・消毒や空気清浄機はもとより、フェイスシールドも用意して、最前列のお客様にはご協力をお願いして、付けていただいています。できる限りの対策をしてクラスターが発生しないように留意しています。6月に公演を再開した際に、できる限りのことをして文化をつないでいかなければと堅く決心しましたので、この秋以降は中止はせず、ずっと続けていかなくてはいけないと思っています。

初めての人にもわかりやすく 心に響くように

── 能の普及活動に力を注いでおられますね。

山本 よく、能は難しいと言われます。元来武家のための芸能でしたので、突然始まり突然終わる、役者の挨拶もなくアンコールもない、そのまま終わってしまう、拍手もいつしていいのかよく分からないというような感じで、初めてのお客様は、疎外感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。さらに室町時代の言葉そのままでやっていますので、内容が分かりづらく、一度観に行ったけれどもよく分からなくてがっかりして、もう二度と行かないという人も案外いらっしゃるのではないかと思いました。

そこで、伝統は守りつつも、初めて来られた方も楽しめて、また行きたいと思っていただけるように色々な取り組みをしています。照明の演出でより一層心に響くような仕掛けをしたり、能の過去を検証しつつ初心者の方にも分かりやすいよう、字幕や解説をつけるなどの工夫をしたりしています。

また、外国のお客様に向けて、日・中・韓の字幕や解説をつけて行っている公演もあります。初めての方に向けて、能の入り口をたくさん作りたいと思っていまして、体験講座やこども向けのイベントなども行っています。間口を広げて色んな角度で能の魅力を紹介し、興味をもってくれた方が能のファンになってくださったらいいなと思っています。

動画やアプリで魅力を発信! 能に気軽に親しんでほしい

── YouTubeで動画を配信したり、アプリを開発したり、新しい試みにも挑戦されているようですね。

山本 「能の5分間」は、主人と一緒に作った台本をもとに、ペトコさんが動画に仕上げてくれたものです。公演を観る前に、その5分間の動画を観てもらったら、ストーリーや見どころがより楽しく理解できるというような内容です。20本作ってYouTubeで公開しています。

「能の5分間」(山本能楽堂YouTubeチャンネル)

能の楽器を疑似体験できる「お囃子先生(OHAYASHI sensei)」*10 というアプリもあります。文化庁からの委託で小学校で能を教える中で、こどもたちに能を教える前に、まず先生に能の魅力を知り学んでいただきたいと思いました。そして、先生方との意見交流会で、能の楽器は学校にはないが、タブレットがあってピアノやギターの音が出せるので、能の楽器もそうできないかと聞かれたんです。そしたらペトコさんが「それ、わたし作れます」って、1週間くらいでアプリのプロトタイプを作ってくれました。他にも4つのアプリがあって、全て無料です。

現代に生きる魅力的な芸能でありたい

── 今後はどのような展開を計画されていますか?

山本 コロナ禍で新しい生活様式となりましたが、これまでの延長線上のことをベースとして、時代に合わせて工夫を重ねながら活動を続けていこうと思っています。それに加えて、今回文化庁からの委託事業として、デジタル技術を使った映像の撮影を12月から行う予定です。180度とか360度カメラで能の公演を撮ったり、能面や能楽堂を3Dスキャンしたりします。こういう企画は、もしコロナがなかったらできなかっただろうと思います。コロナ禍でIT化が10年前倒しで進んだというような感じです。全く未知数のことなのでどうなるかわかりませんが、チャレンジしていきたいと思っています。

── 最後に、世の中のみなさまにメッセージをお願いします。

山本 昨年から「Tradition for a Better Future」というものを理念として取り組んでおります。伝統をより良い未来のために活かすというのがわたしたちの活動の基本です。伝統芸能は変わらないと思われがちですが、時代に合わせて変わってきましたし、今の時代に魅力的な芸能であってこそ、未来につながると思います。そのためには、社会にとって意味のあるものでないと続かないと考えています。そこで、社会貢献として、地域のために無料で能を公演するなど、能が地域の活性化につながる活動も行っています。

2009年に、水の都大阪を再生させる官民一体の取り組みが開催された時、新しい能の作品『水の輪』を公演しました。水の浄化をテーマに環境問題を取り上げ、一般のこどもたちも出演します。汚れた川が再び美しい流れになり、水の神様が大阪の繁栄を寿ぐというお話の能です。大阪の後も沖ノ島、屋久島、小豆島、大船渡市、近江八幡、ブルガリアなど、これまでに20回公演しました。

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Noh for SDGs 『水の輪』2016年11月4日大阪公演(左、 photo: © 辻村耕司)と
『オルフェウス』2019年9月29日ブルガリア公演(右、 photo: © Mili Angas)のようす

また、2015年の国連総会でSDGs*11 が採択されましたが、この『水の輪』の公演を通して、我々も、SDGsのゴールに向けて、日本の伝統芸能を役立て行動できないかと考え、「Noh for SDGs」という活動を続けています。能は650年の歴史があるから素晴らしいのではなく、現代の社会に役立つべきものだと思います。現代に生きる魅力的な芸能、そして皆さんが一緒に共鳴してくださる芸能となることが大切だと思っています。

── ありがとうございました。

(インタビューは山本能楽堂にて2020年12月3日に実施しました)

写真はすべて山本能楽堂提供 

 

*1. 『高砂』 能の代表的な祝言曲の一つ。播磨国の高砂(現兵庫県高砂市)と遠く住吉(現大阪府大阪市住吉区)の地にある相生の松の故事によせ、夫婦の契りの深さや、君民の長寿、平安な世を祝福する

*2. ペトコ・スラボフ(Petko Slavov)さん ブルガリア生まれのデジタルイラストレーター、コンテンツデザイナー。ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォ大学のコンピュータ工学、ソフィア大学の日本学専攻を卒業後、大阪大学にて能楽を研究し博士号を取得

*3. 国立芸能アカデミー  ブルガリアの首都ソフィアに拠点を置く演劇・映画芸術分野の高等教育機関。正式名はブルガリア国立芸能・映画大学「クラスチュー・サラフォフ」(National Academy For Theatre and Film Arts “Krastyo Sarafov” )

*4. 『水の輪』 水の浄化をテーマに山本能楽堂が創作した新作能。汚れてしまった川を、こどもたちが扮する水鳥が掃除することで再び美しい水が流れるようになり、水の神が町の繁栄を寿ぐ

*5. 『羽衣』 羽衣伝説をもとにした能の演目。漁師の白龍が松に掛かる美しい衣を見つけ持ち帰ろうとするが、天女が現れ、その羽衣がなくては天界に帰れないと嘆き悲しむ。同情した白龍は、舞を見せてもらう代わりに羽衣を返すことにし、喜んだ天女は美しい舞を披露し、天に帰っていく

*6. プラチスラヴァ城 スロバキアの首都プラチスラヴァ市街のドナウ川を見下ろす巨大な城。何世紀にも渡って都市統治の象徴であった

*7. 『オルフェウス』同名のギリシア神話を題材に、山本能楽堂がブルガリア市民と共同制作した新作能。ブルガリアの国民的女優やこども達も出演

*8. シビウ国際演劇祭ルーマニア・シビウで毎年6月に実施される欧州最大級のパフォーミングアーツの国際演劇祭

*9. 現在 インタビュー実施(2020年12月3日)時点現在

*10. お囃子先生(OHAYASHI sensei) 和楽器の無料シミュレーションアプリ。能楽で使用されている4つの楽器に触れ、ゲームでそのリズムの基本を習うことができる

*11. SDGs Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略称。2015年9月に国連サミットで採択された国際社会共通の目標。貧困や飢餓、水・衛生、エネルギーなどにおける17のゴール(目標)と169のターゲットから構成される

 

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